第３５回オール読み物新人賞候補作品１９６９年（３８歳）
『甘い冤罪』

髙﨑裕士



  お読みくださる前に
  
  主人公は一人の少女への愛欲にとらわれて苦しみながらも、それをよしとしていない。「私
は心でつながっていることの方を大切にしようと思う」と言う。作者が描きたかったのは、そ
うした愛欲も含めて、人間の小さな愛と命のあわれさであった。
  第３５回オール読み物新人賞の候補作としてノミネートされたが、この時新人賞に輝いたの
は西村寿行氏の『犬鷲』であった。私の『甘い冤罪』について、選者の一人であった新田次郎
先生が選評の中で「努力賞をやりたい作品だ」と評してくださったことを嬉しく思っているが、
その後この作品を超えるものがなかなか書けないでいる。（作者）














「厚(ｱﾂｼ) が、厚が自殺しようとしました…」
電話の中で厚の父親は息をつまらせた。耳を疑つた私は、云うべき言葉を失っていた。
「今朝、救急車で病院へ運んだのですが、ついて行つた家内の電話では、助かるかどうか危い
らしいです」
「････それにしても、どうして」
「わかりません。やっと罪が晴れて喜んでおりましたのに････親不孝なやつです」
「･･････」
「先生と牧師さんに手紙を残しとります。これを読めば何かわかるやろうと思うのですが、こ
ちらへ来て開けてもらえませんか」
「そうですね。今日は････と、え、予定を変えられたら、いや、行きます。すぐ行きます。で、
警察には」
「また警察のごやっかいになるんかと思うとかないませんが、救急車の人が知らせよりました」
「仕方ないでしょうね。その手紙のことは警察には一応内緒にしといて下さい」
  さいわい、その日、法廷に出る予定はなかった。明日にのばしてもどうということのない、
ある民事訴訟の和解の談合は、電話で延期してもらうことができた。事務員に留守中の仕事を
与えて、自分の法律事務所をとび出すと、師走の街角でタクシーをひろった。
  咋日まで私の依頼人だった平岡厚の家は、このＫ巾の郊外Ａ町にある。歳末のこのこみよう
では３０分はかかるだろう。
  平岡厚が自殺をはかる。何を考えているのか底の知れない妙な男であったが、そんなことは
思ってもみなかった。一年半もの拘置所暮らしの末無実が確定して、出所してきたばかりの人
間がすることだろうか。新しい背広を着、老父にともなわれて挨拶に来た厚は、少くとも私の
目には、しみじみとした喜びにひたつていると見えたのだが････それが昨日のことではなかっ
たか。晴々とまでは云えないにしても、弁護への礼を述べる話し方は、今までになくしつかり
していた。長い拘留のためのやつれ、突然にぎやかな世間へ出て来たとまどい、それも不自然
なことではない。死を決意していた男には見えなかった。
  たしかに、彼は感情をあまり表に出さないたちではあった。弁護を引き受けた私にさえ、自
分が無実てあることを打ち明けなかつた程である。思いがけぬことで、彼の冤罪(ｴﾝｻﾞｲ) が考
えられるようになつてからでも、面接のとき、いったいこの男は自分の無実を本気で訴える気
があるのだろうかと、いぶかしく思ったものである。今思えば、無実ということを知られて後、
まだ何か秘密を持っていた、そんな様子だった。しかしその時は、裁判を無罪にもって行くこ
とで忙しくて、私は気にとめることもなかった。
  結局、「未必の故意による傷書致死、及び死体遺棄の罪により懲役六年」という求刑に対し
て、判決は「証拠不十分によって無罪」となり、検察側も珍しく上訴しなかったため、あれ程
世間を騒がせた事件もうやむやのうちに落着した。
  そこへ今日のことである。私の心は重かった。一応は裁判に勝ったものの、私は、いや検事
も判事も、何か大きなミスを犯していたのだろうか。平岡はやはり黒だったのか、栽判の意外
な進展の結果、無罪となったことへの良心の呵責(ｶｼｬｸ)、そんなものが彼に死を求めさせたの
であろうか。犯人としかえ考られないそぶりも彼にはあった。疑惑が黒雲のように拡って、私
はシートにしばりつけられたように、身じろぎもせず回思し続けた。
「まゆみちゃん殺し専件」、それが平岡厚にかかわる少女殺害事件にマスコミが与えた通称で
あった。
  その事件は、一年半前の、早く来た梅雨で何日も降り続いた後の、重苦しい日に、平岡が工
員として勤めていたＡ町の小さな燐寸(ﾏｯﾁ)工場でおこった。工場経営者の末娘まゆみ(当時小
学校５年生) が、その日のタ方遊びに出たまま帰って来なかったのである。はじめは長雨で増
水した池にでも落ち込んだのではないかと考えられて、その夜また降り出した中を町ぐるみの
捜索がなされた。工場と裏続きになっている県立Ａ町自然公園の大池など、消防団が出て竿で
ついて廻った。工場の内部もくまなく捜されて何も出なかった。三日目ぐらいからは誘拐の線
でも警察が動いた。
  ところが行方不明の十日後、何もなかったはずの工場内乾燥軸木溜め(適称コウミ)の床下で、
半ば腐乱した死体となって発見された。約十日前の死亡と推定される死体にはウジが湧き、悪
臭をはなった。それまで気づかれなかったのが不思議であった。
  少女がいなくなった日、平岡はただひとりこのコウミの近くで残業していた。それに加え、
誰の眼にも異常な程、ふだんからまゆみを可愛がっていた。さらに行方不明期問中や死体発見
後の言動など、不利な状況証拠がそろっていて目をつけられていた中で、葬式にでて棺にとり
すがって泣き出したために人々の不審を買ったその場所から、重要参考人として同行を求めら
れたのであった。
  刑事訴訟法に違反して警察は、彼を拘束した。犯行を否認し、帰らせてくれと云う平岡に、
吐いてしまえば帰らせてやると、無知につけこんだ言葉で責め続けて、ついに自白させた後に
逮捕状を取っている。
  しかし警察の、取り調べ上の行き過ぎはともかく、誰が見ても平岡は犯人としか思えなかっ
ただろう。強要された自白だというが、実際は、その日のタ方にはずいぶんしおらしくなって、
刑事のたずねるまま、ひと通り殺しの筋書きを供述し終えると、
「まゆみちゃん、兄ちゃんが悪かった」と大声で泣きだしたというのである。
  法廷に持ち出された警察調書によれば、その時彼は、次のように自供している。

  私ハ、フダンカラ、まゆみチヤンヲ可愛ガッテイマシタ。まゆみチヤンハ、私ノツトメテイ
ル燐寸会杜ノ杜長ノ三女デアリ、家ガ工場ニ隣接シテイタタメ、ヨク作業場ニアソビニ来テオ
リマシタ。ドウシテまゆみチャンヲ可愛ガッテイタカト云イマスト、私ガモトカラ子供好キナ
ノト、２９歳ニナリマスノニ結婚シテオラズサビシカツタカラデス。

  この後、結婚できなかった理由として、内向的な性格、風采のあがらぬことなどが述べられ、
そのため年少の異性に興味を感じることがないではなかったと供述している。ついで事件当日
のことが語られている。

  アノ日、定時デミンナ帰ツテシマイ、私ダケガ翌日ノ作業ノ段取リヲスルタメ残業シテオリ
マシタ。宿直員ハマダ来テオリマセンデシタ。ソノ時、工場ノ外デ他ノ子供タチトアソンデイ
ルまゆみチャンノ声ガ聞コエテイマシタ。ヤガテ他ノ子供タチが帰ッテシマッテツマラナクナ
ッタノカ、まゆみチャンヒトリ作業場ニハイッテキテ、「オ兄チャン、カクレンボシヨウ」ト
云イマシタ。仕事モホトンド終ツテイマシタシ、私モまゆみチャントアソブノガウレシカッタ
ノデ、ウスグライ工場ノ中デ交替ニ鬼ニナツテアソビマシタ。何回メカノ、私ガ鬼ニナッタト
キ、機械ノカゲニカクレテイルまゆみチャンヲ、反対ノ方カラマワッテ行ツテ、ワット後カラ
ツカマェマシタ。ソノトキハタダ、誰モガスルヨウニ、両手デ肩ヲツカンダダケデス。
  シカシ、私ハソノママ手ヲハナシマセンデシタ。まゆみチャンハフリホドコウトシテ、ワラ
イナガラモガキマシタノデ、私ハカエッテ力ヲ加エテ、結局後カラ抱キコンダ形ニナリマシタ、
まゆみチャンガイッソウ激シクアバレマシタ（原文から一部削除）  まゆみチャンハ、「オ母
チャンニ云ウテヤル」ト叫ビマシタ。ソノ声ヲ外ノ人ニ聞カレテハ困ルト思イ、胸ヲカカエテ
イタ左手ヲアゲテ口ヲ抑サエマシタガ、まゆみチャンガアバレタノデ、二人一緒ニ後ニ倒レ、
横転シテ体ゴト押サエツケルヨウニナリマシタ。コノトキ、口ヲオサエテイタ手ガスベッテ、
喉ヲシメルヨウナ形ニナリ、息ガツマツタノカまゆみチャンハ動カナクナッテシマイマシタ。
  抑サエコンダトキ、相手ガ死ヌト思ワナカッタカトノオタズネデスガ、コノママデハ死ナセ
テシマウカモシレヌト、一瞬思いマシタ。シカシ、ドウスルコトモデキマセンデシタ。

  これが「未必の故遺」を問われた点である。「故意」を立証することが困難だと見た刑事が、
うまく誘導して答えさせたものであろう。自供は汀お統く。

  今ニシテ思エバ、気ヲ失ツテイタダケカモ知レマセン。シカシ私ハ、殺シテシマツタト思イ、
怖シクナツテ、まゆみチャンノ体ヲコウミノ下ニ押シコミ、イソイデ帰ル用意ヲシテ工場ヲデ
マシタ。コノトキ、アワテテオリマシタノデ、タイム・カードヲ押スノヲ忘レテイマシタ。

  この供述が、係官の空想で「ありそうなこと」をつづり合わせた作文ではないかとの疑いは、
実は公判の初期から持たれていたことである。中でも、コウミの下に死体を遺棄したという点、
死体がそこで発見されたのは事実であるが、先にもいった通り、行方不明になった日の夜、問
題の場所もまた数人の者がのぞいて見ていたのである。その一人で、平岡とも面識のあった消
防副団長某は、コウミの下に頭をつっこんで懐中電灯で照らして何もなかったことを確認して
いるのだ。死体の発見された日、地元Ｋ紙の夕刊は、この某の談話を載せている。
「あんな所にいたとは思いませんでした。私も調べて何もなかった場所です。誰かが、あとか
ら運びこんだのと違うでしょうか」
  ところが警察調書はこうである。

  マエニ刑事サンニ、話シマシタコトハ、私ノ思イ違イデシタ。コウミノ下ヲ見ルコトハ見タ
ノデスガ、懐中電灯ノ光ガ暗く、奥ノ方ハヨク見エナカッタノデス。ソノトキ死体ガナカッタ
トハ云イキレマセン。(中略)今思ウト平岡ハソノヨウナコトヲシソウナ男デシタ。(下線著者)」

  この証言には、明らかに平岡自供後の作意乃至偏見が感じられる。係官の誘導によるもので
あろう。さすがに検事もそれを感じてか、被疑者に、
「本当にお前がやったのか」と、念を押している。
「はい、警察でお話しした通りです」
  どこまでも神妙な、いやむしろかたくなに警察での供述を繰り返す厚に、検事も自信の持て
ないまま起訴したらしい。
  依頼されて弁護人となった私も、同様騙されていたと云える。消防副団長は、法延でも同じ
ことを、なぜかおどおどしながら繰り返すだけだったし、何と云っても平岡自身が、私にまで
供述書通りのことしか話さないのだから始末におえなかった。
  それでも私は、独自の立場で消防副団長の供述書への不信を述べ、「前ニオ話シシマシタ」
というかぎり、これに先行する別の供述書があるはずだ、それは平岡自供前のものにちがいな
い、それを公判廷に提出するよう強く要求した。
「それは、既に無価物廃棄処分に附しました」
  私の要求をいれて、先行供述書が提出できるかどうかたずねた裁判長に、検事の答えはあき
れたものだった。しかし私は、検察の側も自信がないことをはっきり知った。
  だが被告が犯行を認めている以上、あまりアラサガシをして関係者の心証を悪くするのは得
策と云えない。むしろ情状酌量の余地のあることを立証しなければならない。私はこの種のケ
ースの定石通り、平岡の精神鑑定を求めた。検事は、法廷でこそ反対したが、廊下ですれちが
った時、
「あれはたしかに変っている。鑑定させてみる価値があると思うね。面白い結果が出るんじゃ
ないか」と、ささやきかけて来た。
  平岡厚は、Ｈ大医学部精神科医長山崎悟博士の鑑定にかかることとなつた。そして、検事が
予想したように、いやそれ以上の、弁護側も予測しなかった異例の内容を持つた鑑定書が提出
されたのは、事件から一年以上を経た今年の、街に初秋の気配の感じられはじめた頃であった。
  異例と云えば大げさに聞こえるが、新聞がそのような言葉で大きく報道したのである。私は
単に、精神耗弱が証明されればよかつたのだが････

  警察、裁判所での供述はウソ
          －まゆみちゃん殺のしの平岡－
     鑑定書が異例の無実主張！

  Ｋ紙夕刊の見出しである。私の談話も取材されて載った。
「弁護側としても全く驚いています。これが本当だとすれば、これまで見当ちがいの弁護をし
てきたことになります。今後は、当然無実の線で押して行くことになりますが、まだ具体的な
方針は考えられません」
  鑑定書そのものは、しかし、それ程センセーショナルな表現はとっていなかった。それは、
精神医学的な検査から被告の特異な氣質を得たとして、最後を次のように緒んでいる。「バル
ビツール酸系の催眠剤イソミタールを用いた面接法は、クライエントの心的内容をあまさず曝
露するものであるが、他の諸検査によって被告が無実ではないかという疑いを得ているので、
その点を明白にするための使用は許されることと考え、被告にこれを施した。その結果、犯行
の心理的痕跡は全く認められなかった、それよりもむしろ、無実であることの方を知られまい
とする膠着的心理状況を発見した。すなわち、作為的にウソの自供をなして後、その抑ウツ的
精神病質のタイプにありがちな一種の自己暗示にかかり、あるいは間違った事実を信じ続けた
い理由により(後者の可能性が大である)自らその虚偽にしがみついていると考えられる。結論
は法家の判断にゆだねるが、医師として、被告の
無実の可能性が大きいことを附記せざるを得ない」
  翌日、拘置所へかけつけた私はかなり腹をたてていたと思う。
「平岡君、君は自分が無実だということなんか、ひと言も云わなかったじゃないか。どうして
なんだ」
  面接室に現れた厚は、ぼんやりと生気がなく、魂の抜けた男という感じだったが、
「鑑定書のことですか」と、下を向いてしまった。
「そうだ。君はもう読んだのか」
「きのう、担当さんがとどけてくれました」
「鑑定書は、君がこれまで云ってきたことが全部ウソだったと書いていただろう。そうなのか。
君は僕にまでウソをいって云たのかね。どうなんだ」
  つい詰問する調子になった私に、彼は口を閉ざしてしまった。
  なだめたり、これでは弁護は続けられないとおどしたりして、やっと聞き得たのは、本当は
自分は犯人ではないのだが、警察であまりしつこく責められて、めんどうくさくなったのと、
何となく自分が殺したような錯覚にとらわれ、自供してしまうと今度は、喜んでいる刑事たち
が気の毒になり、検事に念を押された時もつい否認しないでしまい、それからはもうどんなに
あがいてもだめなのだとあきらめてしまったこと、先生を困らせるつもりは毛頭なかったのだ
が、今頃こんなことになってすまない、と、全く要領を得ないばかりか、無実の主張がめいわ
くであるかのような口ぶりであった。
  真犯人を知っていて、かばっているのではとたずねると、今度は打って変ったきっぱりとし
た口調で返事してきた。
「真犯人なんか知るもんですか。誰がまゆみを殺したかなど、考えたくもありません。とにか
く、本当に知りません」
  それまで焦点の定まらなかった厚の眼が、急に怒りに燃えたようで、「まゆみ」と呼び捨て
にしたのも奇異な感じがした。しかしすぐ元の調予にかえって、
「すみませんでした。弁護は統けて下さい。再出発するしかないでしょう」と、人ごとのよう
に云ったが、それでも希望を持ちはじめたように見受けた。
  今思えば、ここでまた私は一杯くわされていたのである。再出発どころか、無実を証明
されて自殺を考えるとは。
  私は方針を切りかえた。裁判上は「証拠不十分」の線にねらいをつけ、法延外ではより積極
的に真相の調査にとりかかった。どちらも容易なことでなかった。
  みんなが平岡の虚偽の自供におどらされている間に、真実は遠くかすんでしまっていた。地
元ではこの陰惨な事件を忘れたがっていた。その上、公私二つの圧力がかかって来た。ほかな
らぬ警察自身と土地の暴力団がそれであった。刑事が、私の行く先々をたずねて歩いて、今頃
いらんことをいうと為にならないなどとおどかした。証人の中には素行の悪い者もいたから、
刑事のおどしはよく効いた。
  私が真犯人と考える男Ｓは、Ａ町に勢力を張る暴カ団Ｈ組々長の義理の甥で、同組の若者頭
であった。警察も捜査の初期、平岡自供以前の段階で、Ｓの挙動に不審を抱き、平岡と並行し
て身辺を洗っていたが、Ｈ組の上部組織であるＫ市の企業暴力団Ｙ組から、自由党の有カ者Ｓ
氏を適してＡ町警察箸に圧力が加えられたとのうわさもあった。現に私が動き始めると、Ｈ組
の若い者が様子をさぐりに来たり、陰から証人たちに圧カをかけたりし始めた。被害者の父親
自身がそっと打明けてくれた。
「弁護ツサン、わしもほんまは平岡やと思とらへんのや。そやけど、こんなこと大きな声で云
うたら、ここらにおられへんもんな」
  Ａ町は暴力汚染地区と云われていた。Ｈ組の威力は大きかった。対抗勢力のＫ市Ｏ会系の組
織もできていた。たまたまＯ会々長の舎弟でＡ町に住む男が私の知己で、彼は逆に親切心から
私をおどかした。
「先生、やめときなはれ。Ｈ組のやつらは自分らァに都合の悪いもんにはどんなことでもしよ
りまっさかいなあ」
  彼自身、Ｈ組の若い者たちに腹を撃たれて死線をさまよった経験を持つていた。
「八発も撃ちこみよって、腸がズタズタになりましてン。一年も入院しましたで」
  そのことは私も知っいたが、よく気をつけるからと云って、彼の息がかかっている火葬場の
職員を紹介してもらつた。まゆみの灰に異常があったことを耳にはさんでいたからである。
「そうでんな、焼けた後を見たらたいてい何で死んだったか見当がつきマ。あの子ォは尻のあ
たりが黒く炭になって焼け残っとりましたさケ、えろう内出血しとったんとちがいまっしゃろ
か」と、その男は教えてくれた。
  一方また、まゆみの死体の着衣にタイヤの跡があったとのうわさもある。検証写真を私が見
たかぎりでは屍汁によるシミのため判然としなかった。解剖所見はどうかというと、腰部につ
いて内出血にはふれず、広範囲にわたって皮ふの変色を見る、とある。もちろん死因とはして
いない。これでは今さらどうしようもない。しかしまた平岡の自供通りに殺しが行われたとし
て(これは云いすぎだ、その時はまだ死んでいなかったかも知れないのだから)、腰部の皮ふの
変色は何のためか、検事は、被害者が平岡ともつれ合った時、倒れて機械に打ちつけたのだと
云っている。これは全く当たらない、検事の云う機械のその部分はカドばっていて、とても広
範囲の打撲傷を与えるものでない。また二人の体位から考えても不可能である、一方、平岡に
結びつけられる喉頭部にも、かろうじてそれらしい瘢痕を見つけてはいるが、生活反応もはっ
きりしないので腐燭して剥離しかかったものともとれる。同様のものは全身に散見され、もは
や自供がひるがえされてからでは説得力を持たないことは明らかである。
  これはやはり、平岡逮捕以前にささやかれ、警察も圧力がかかるまで(それが本当だとして)
駄っていたＳによる交通事故の線が当っているのではないだろうか。Ｈ組は表むき砂利採取業
者である。Ｓはふだんはダンプを運転しているし、オトキチでもある。その上、Ｓの叔父、つ
まりＨ組長の義弟が平岡と同じ燐寸工場に勤めていて、まゆみの失踪後数回の宿直を買って出
ているのである。
  考えられることはＳの不注意からはねとばして死なせたまゆみの死体を、Ｓの叔父やＨ組の
者が共謀して隠匿し、平岡厚も取りざたされているのに目をつけて、叔父の宿直の晩運びこん
で発見されるのを待ったという筋ではないだろうか。
  為にする、余りにも空想的な推理と人は思うだろうか、Ｓの線で考えてはじめて採用できる
物的証拠もある。死体の搬入経路と思われる場所に点状で現れたルミノール反応は、どうして
も平岡とは結びつかない。場所もそうだが第一血液がでない。Ｓの場合は血液でなく死体搬入
時に口や肛門からこぼれしたたった屍汁と見られる。ルミノール反応はこうした体液にもプラ
スとなる。
  また、死体と共に煙草の吸いがらが発見されている。平岡は喫煙の習慣はないし、工場関係
者なら危険を知っていて吸える場所でない。恐らく従業員である叔父は何かの理由で手引きだ
けしてその場にいなかったのかも知れない。
  割箸が二本死体の頭のところで見つけられている。それが何のためのものか全く謎であった。
腐敗が進んでいて搬入時に毛髪が脱落したとしよう、別な所で拾っできた割箸でつまんで頭部
に置く、割箸もそこへ捨てる、その間悪臭に耐えるため煙草を吸う。そういうことではなかっ
たか。
  さらにＳの失踪である。彼は事件後間もなく組の縁故をたよづてＫ市に出、その後居所不明
である。ワラジをはかされた、そんな感じの出奔であった。
  それにしても平岡厚は、余りにもやすやすと自供してしまったものだ。仮に警察に何の圧力
もかからなかったとしても、彼の態度は真に迫っていて、刑事たちを他の線の捜査から引きあ
げさせるのに十分であった。そのこと自体、依然として謎である。
  そして今、Ｓを告発することも、数々の不審な点が出て来ていながら不可能であった。裁判
所というものは、全くもって形式にこだわる所である。事実誤認をとなえても、再調査を命ず
ることさえできにくいようになっている。警察と検祭庁と裁判所は、グルになっ
て面子(ﾒﾝﾂ) を守り合っているようなところがある。だから、今になって供述を変えた平岡に
対しては、その心証はきわめて悪かった。マスコミが騒いでくれなければこのたびの判決だっ
てあやしいものである。精神鑑定書が出るまで犯行を否認しなかった理由が何か、判事からも、
検事からも、繰返し質問された。それに対する平岡の答えは例の通り歯切れの悪いもので、し
まいには、自分が真犯人に代って罰を受けることは、人類の罪をになって死んだキリストの教
えにかなっているとバカなことを云い出す始末であった。彼は、洗礼は受けていなかったが、
時々Ａ町の教会の礼拝に出席していたのである。参考人として呼ばれた牧帥は、ダブルの背広
に苦しそうに巨体をつつんで現れたが、
「平岡厚さんは、まじめな思いつめる人でしたから、このような場含にも、自分が犠牲になる
ことで真犯人を悔い改めさせられると信じたのでしょう。私はそれはまちがった考えだと思い
ますが、平岡さんがそう信じこんだのは別問題で、あり得ることです。とにかく平岡さんは人
を殺せるような人ではないと思います」と、証言した。
「それはあなたの主観にすぎない。牧師であるあなたは、何かの相談を事件後にされませんで
したか」と、検事。
  この時、裁判長が、刑事訴訟法第１４９条によって、宗教家が職務上知り得た他人の秘密に
関しては証言を拒んでもよいと忠告したが、牧師は、
「相談を受けたことはありません。ですからかくさねばならんこともありません」とだけ云っ
て証言を打ち切った。
  裁判の経過について話すことはもうよそう。とにかく、誰もが釈然としないまま、証拠不十
分によって無罪となった。後味の悪さは多少残ったが、一応買ったと思った。そして咋日、出
所してきた平岡を見て私は満足していた。
  それがなぜ自殺しなければならないのか。後味の悪さはふくれあがり、得体の知れない疑惑
となって私におそいかかって来た。私はどんな事実を見のがしていたのか、平岡はどんな秘密
をかくしていたのか。出所早々Ｈ組が耐え切れぬ程の脅迫をかけて来たのか、あるいは、真犯
人を知らぬというのはウソで、何かの義理で罪をかぶるつもりだったのがこうなったための、
いわゆるオトシマエを自分の生命で払ったのだろうか。それとも自殺に擬装した新しい殺人事
件か。いや、それはあり得ないことだ－父親の電話は、私に遺言
を書きのこしているといっていた－それを読めば疑問がとけるのだろうか－そそうだ、何より
も早く厚の手紙を読まなければならない。
  焦躁を乗せて、タクシーはやつとＡ町の平岡の家に着いた。近所の主婦たちがひそひそ立ち
話をしている中を、私は平岡家の玄関につき進んだ。ある工務店の現場主任をしているという
厚の父親は、その浅黒い、しかしいかにも憔悴した顔で、私を待ち受けていた。
  今、警察官が帰ったところだと彼は云つた。厚については、飲んだのは睡眠薬らしく、どう
やって入手したのかは不明だが、量が少なかったので命はとりとめるとの連絡があったという。
  奥の座敷では、あの時の牧師かきゅうくつそうに坐っていた。厚はこの部屋で死をはかった
ものと思われたが、寝具などはすでに片づけられていた、私たちは厚が寝ていたと考
えられるあたりを中にして、まだそこに彼が横たわっているかのように位置を占めた。
「なぜこんなに心配ばかりかけるんでしょうね、親不孝なやつだ」電話と同じことを云って父
親は体をゆすった。
「手紙は牧師さんにお渡ししてます」
  その言葉を待っていたように、牧師はかなりぶあつくふくれた封筒を内ポケツトから取り出
した。そして、
「先生が来られてからと思い、まだ開いてません。お待ちしていました」と、どこまでも律義
であった。
  遺書になっていたかも知れない、それの表には、きちょう面な字で私たち二人の名あてと、
親展という文字とが記されてあった。やややためらったが、父親には知る権利があろうと思い、
牧師に開封をうながした。
  厚の命が助かるとわかったのだから、私たちも読まぬ方がいいのではないかと、彼は開封を
ためらった。
「法的な遺言ではありませんし、やはり読んでおかないとね。いつまた自殺するかも知れない
のを防ぐためにも」
「なるほど」
  それは薄手の便菱にぎっしり書きこまれていた。私たちはそれを一枚ずつ廻し読みにしたの
だが、父親は最初の一枚さえ読み切ることができなかった。肉親には耐えられない生生しい告
白であったのだ。

  牧師様、Ｔ先生、これまで大変お世話になりました。私があいまいな態度を取っできたため、
Ｔ先生には弁護士としてのお仕事の上で非常なごめいわくをかけたと思います。無実であるこ
とを、依頼人自身が話さなかったのですから、先生は全く見当ちがいな弁護をなさったわけで、
お怒りだったでしょうが、それでも私のための弁護を継続して無罪を勝ち取って下さいました。
  牧師様にも同様おわびしなければと思います。教会へ行っておりました時には本当によくし
て下さいました。ひっこみ思案の私が、すみの方でかくれるようにしておりました時にも、気
をつかって下さったこと、覚えております。信者でもない私のことで、新聞などがクリスチャ
ンの殺人と書きたてましたのでずいぶんごめいわくだったと思いますのに、先生は手紙を下さ
って、それも見当ちがいだったのですが、罪を悔いて生れかわるよう、はげまして下さいまし
た。犯行否認後は証人台にも立って下さいました。お二人の先生にこれ程よくしていただきな
がら、私はまためいわくをかけようとしています。
  私は生きる支えを失いました。いえ、とっくに失っていたのですが、ついうかうかと生きて
来てしまいました。もちろん拘置所の中では死ぬ方法もありませんでしたが。
  常識でしか、ものを考えない世間は、またとやかく云うでしょうが、先生方には今度こそ本
当のことをお話ししておかねばと思います。両親は私の異常な心理を理解できず、ただ悲しむ
だけだと思いますので、先生方から何とかわかるように説明してやって下さい。
  さて、はじめにお断りしておかねばならないと思いますが、事件に関して、直接にはやはり
私は無実でしたし、真犯人が誰なのか、Ｔ先生が追求しておられたＳであるのか、そんなこと
は何も知りません。彼らが私に罪をおっかぶせたのだとしても、別にうらみもしません。反対
に、彼らからうらまれているとか、おどされているとか、そんな事実はありたせん。私が死の
うとする一のは、あくまでも私がそういう形で生きようとするからなのです。死も自ら選ぶと
き、一つの決断的な生となると思うのです、工員ふぜいがえらそうなことをいいました。でも
本当です。
  うらむとすれば、無罪放免のきっかけとなった精神鑑定でしょう。私から大切なものをうば
い取った山崎博士をにくいと思います。博士は心理学、医学、薬物学という合理的科学の力を
借りて、私の不合理性をあばきました。合理的であることがそんなに幸せなものなのでしょう
か。合理性、必しも人間を生かすとは限りません。
  私は、まゆみを殺したという虚偽の中に生きていたかったのです。いいえ、それは虚偽では
ありません。私にとっては真実でした。真実と真相を世間は区別しません。しかし私には、虚
偽であろうと私を生かすものが真実なのです。
  愛する者との一切のつながりがなくなった時、その者を辱しめて殺したという汚名でもよい、
それを着ることで一生その者とつながり統けて生きたかったのです。
  山崎博士の催眠面接法は、私から、「自分の真実」に生きようとする意志をうばって、殺人
犯であるよりは殺人犯でない方が幸福だと決めてかかる常識の世界へ私を投げこんだのでした。
しばらくは博士の思い通り、イソミタールに酔っていた私が、自分をとりもどして自分を見つ
めた時、どんなに深く「死」を味ったか、わかっていただけるでしょうか。あのまま無罪にな
らないで、死刑になったとしても、私は「生」を味って死ねたでしように。
  精神鑑定医に、あんな権限があったのでしょうか。Ｔ先生が依頼された精神耗弱の証明、そ
れだけでよかったのではありませんか。医者の善意からだというなら、常識的な善意は人を殺
す場合もあることを知っていてもらいたいものです。理屈が多くなりました。具体的に書きま
しょう。
  私はまゆみが好きでした。もともと子供好きですが、まゆみは私のすべて、私のいのちでし
た。恋人であったと云ってもよいでしょう。
  私は大人の女性にはあまり好かれませんでした。人なみに恋をしたことはあるのです。今の
工場に入る前には、デパートの売り子をしている中学校の時の同級生に思いを打ち明けました。
内向的な私にはよくよくのことでしたから、それだけにおどおどした私のプロポーズはこっけ
いに見えたのでしょう。問題にもされませんでした。
  燐寸工場へ来てからは、一人の年上の女工が好きになりました。姉さんのようにやさしい人
だと思っていました。しかし、気持を打ち明けた時、いやな顔をしました。そればかりか、私
のことを気持ちが悪いなどと女工仲間に告げてまわったと知った時、私の心は冷えきってしま
いました。女性なんか好きになるものかと決心しておりました。
  そんな私にも子供は無心でした。事件からは一年以上前の、春のある日曜日、日直に当って
いた私は宿直室でころがっておりました。守衛のいない町工場で、しかも火薬類がありますか
ら交替で日、宿直するのです。
  三時頃だったでしょうか。どうせその日はへ宿直も引き受けておりましたから、ふとんを敷
いてしまい、服のままもぐりこんでいたのです。外からは子供たちの声がものうく聞こえてき
ます。杜長の娘のまゆみもまじって、かくれんぼをしている様子でした。それまでまゆみは、
私を従業員の一人として顔を知っていただけですが、突然宿直室に入って来ました。勝手を知
った工場内にかくれるつもりだったのでしょう。ふとんから首を持ちあげて驚いている私には
目もくれず、窓から外の鬼の様予をうかがっていましたが、鬼が近づいて来る様子に、こわが
り笑いをして、やにわに私のふとんの中にもぐりこんで来たのです。そして、頭まですつぽり
ふとんの中に入って、ウフウフと含み笑いをしているのです。無邪気というよリ、私を無視し
ていたのかも知れません。私はびっくりもしましたが、内心嬉しいと思いました。鬼が入って
来ても知らぬふりをしてやろうと考え、一人で寝ているように見せるため、まゆみをかかえこ
むようにしてやりました。実際は、その都屋にまでよその子が入ってくることはなかったので
すが、私を嫌わないで、体を押しつけ息を
ころしている少女が愛らしく、いつまでもそうしていたいと思いました。
  まゆみのオカッパ頭は丁度私のあごのあたりにあって、甘酸っぱい汗のにおいが鼻をつき、
私は経験したことのないたかぶりを覚えました。かかえていた腕に力を加えても嫌がる様子も
ありません。顔を彼女の髪の中にうめて、くるおしい汗のにおいを吸いこんでおりますと、ま
ゆみはくすぐったそうに体をくねらせ、のけぞるように顔を向けてきました。私の乾き切った
口の前に、まゆみの唾液に濡れた唇が紅く光っていました。（原文から一部削除）
「お母ちゃんにいうてやる」
  しかし、それとて批難する調子ではありませんでした。ケラケラ笑いながらふとんを這い出
すと、さっと宿直室を出て行きました。外は、鬼もあきらめて帰ったのか、春の夕陽が静かに
窓を照らしていました。
  どういうものか、まゆみは私が気に入ったらしく、それからも日直の時、よく遊びに来まし
た。しかしあの日以後、手をつないで公園などを散歩することはあっても、体に触れることは
断じていたしませんでした。まゆみの方はあい変らず無邪気で、私のひざに乗って来たりもし
ましたが、私は心でつながっていることの方を大切にしようと思い、今は年のわりにしても、
無邪気すぎるまゆみが、成長するにつれて必ず嫌悪し始めるようなことは、もうできませんで
した。
  考えてみると、それは本当に恥しいことで始ったと思います。しかし、それがきっかけで、
私はまゆみに一方的ですが、恋をし、愛しはじめたのです。まゆみが成長した時、それが相互
的な恋になるよう祈りました。それだけに、今まゆみを傷つけるようなことはできないと思っ
たのです。
  しかし同時に、いくらそうしていても、必ずあの日のことを不快に思い、他の女性たちと同
様、いやそれ以上に私を嫌悪する、そんな日が来るのではないかと恐れておりました。それな
らいっそ、その日の来ぬうちにまゆみを殺して、永久に私のものにしておけたらと、恐しい空
想に身をふるわすこともありました。
  まゆみを失いたくない一心で、私は勉強を始めました。「発達期の心理学」がそれです。中
学校しか出ていない私にはむつかしかったのですが懸命に読みました。、この手紙の中で私に
ふさわしくない言葉をつかえるのも、その勉強のおかげです。さて、中でも私が最も興味深く、
同時にまた恐れをもって読んだのは、雑誌「児童心理」第×号の特集「初潮と心理」でした。
第二次性徴の発現とそれにともなう少女の心理の急激な変化を扱ったものでした。
  気持は幼くても、体はよく発達しています。アクセラレーションというのですか、どんどん
早くなつていて、小５くらいに初潮を見ることはまゆみにも云えると思いました。その時、幼
かつたまゆみが、どんなに変って、私をどんな風に見るでしょうか。
  私の恐れていた時が来たのは１年過ぎた事件の年の春でした。
  たまたま通りで一緒になり、いつものようにつなごうとして出した私の手を、まゆみは振り
切ってどんどん行ってしまったのです。ついその前までは彼女の方から手をのべて来たのにと、
私はその日が来たと思いました。日直していても遊びに来ないのです。そうなるとなおまゆみ
がかけがえのないものに思われ、まゆみを得たこと、失ったこと、両方の出発点であるあの日
のことが狂おしくなつかしまれるのでした。
  事件の日、警察でも話しましたように、私はひとりだけの残業をし終えて、工場の裏庭に出
てみました。そのブロック塀の向うは自然公園の森です。仕事に疲れた時など、鳥の声を聞き
にここへ来るのはいつものことで、他意があったわけではありません。雨は一時的にあがって
おりました。ふと私は、ものかげに隠れるようにして、森へ抜けるくぐり戸に近づいて行くま
ゆみを見ました。私に見つかるまいとする動作でした。頭が燃え、口が乾きました。
「まゆみちゃん････公園へ行くんやったら････一緒に････行こか」舌がねばりついて、我なが
らなさけない声でした。
  彼女は返事をする代りに、大急ぎでくぐり戸にとびつきました。その戸は雨を吸っていまし
たからすぐには開きません。私はまゆみのところへ馳け寄ると、両手で肩をつかまえて言いま
した。
「何ンで、この頃あそびに来やへんのン」
「いやや、いややねん」
  ふり向きながらそう答えたまゆみの眼に、怒りとも嫌悪ともとれる色をはっきり見てとった
私は、おろかにも後から抱きすくめて、その頬に唇を押しつけようとしたのです。
「やめてえな、お母ちゃんに云うたる！」
  まゆみは強い力で私をふりほどくと、丁度開いたくぐり戸をすり抜けて森の中へ走り去りま
した。私は追う気力もなくしていました。いつか心と心でむすび合いたいと夢見ていたその心
のつながりに望みを失った時、おろかにも私は、それを失わせたはじめの行為へもどろうとし
たのです。心の代償に皮ふを求めたのでした。そして、結局は一切を失ったと知りました。タ
イム・カードを押すことも忘れて、私は工場を出ました。
  あまりにも幼稚な、くだらないことで一生を棒にふる男とお思いでしょうか。この世には大
きなこと、立派なことが無数にあります。幼児のようなものに退行して、劣情のとりこになっ
た私、崇高なものを求めておられる牧師様や、社会的に価値のある仕事にはげんでいらっしゃ
るＴ先生から見れば、何とちっぽけな存在でしたでしょう。でも、私には私の人生がありまし
た。社会的な効用や政治性などのために自分に忠実でない人たちよりは、自分の人生を見たと
思っています。その小さな人生から見れば、まゆみは大きな意味を持っていました。しかし、
そのまゆみは森の中へ走り去って、生きては二度ともどって来なかったのです。
  まゆみを可愛がっていたことは人も知っていましたから、行方不明になると、早速その夜、
まゆみのお母さんがたずねに来ましたし、警察官にもいろいろ問われました、裏庭でのことは
どんなことがあってもいわないつもりでした。しかし、はた目にも私は取りみだしていました。
帰って来ないのは私のせいだと思いましたから、気狂じみて捜しまわりました。そのことまで
状況証拠にされるとは知りませんでした。その頃から刑事は私に目をつけていたのです。
  死体があのコウミの下で見つかった時、そんな所にという疑いより、私の職場のすぐ近くに
いたんだということが、なつかしさと悲しさのまじり合ったものになって私をとらえました。
また、誰が殺したのだろうという疑いより、私が悪かったんだ、私のせいだと、そればかり思
いつめました。ずっと平静さを失っていましたが、葬式の時はとうとう我慢がし切れなくなっ
て取りみだし、棺にすがりついて、
「まゆみちゃん、お兄ちゃんが悪かったんや、かんにんしてな」と、泣き叫びました。
  逮捕状までは出ていなかったようですが、この時の私の態度が刑事に確信を与えたのでしょ
う、重要参考人として同行を求められたのです。それは逮捕連行も同じようなものでした。来
合わせていた記者たちはすっかり犯人扱いしました。私も犯人になった心境でした。フラッシ
ュを浴びて、パトカーに乗せられる時、両手で顔を覆いました。
「さあ、早うしゃべってしもて楽になるのや」
「お前がやったことははっきりしてるんやから、隠してもあかんねんで」
  Ａ町警察での取り調べはきついものでした。二、三人の若手刑事が私を取りかこんで責めた
ててきます。まゆみに対して悪かったという気持で、犯人のような気持になっていた私も、な
ぜ殺したんや、どうやって殺したんやと問いつめられると答えようがありません。黙っている
と机をたたいて責めてきますし、落ちついて考えたいから帰らせてくれといえば、
「何考えることがあるんや。お前がやったことを話すだけやないか。云うこというてしもたら
帰らしたるがい」と、わめくのです。
  頭の中が混乱して、自分がどこにいるのかもわからなくなりました。遠い昔にもこんなこと
があったような、あるいはテレビ・ドラマを見ているような、ひどく焦点のぼやけたその画面
の中心に私が坐らされていて、別な私がそれを見ているのです。
  ぼんやりしてしまった私に、刑事たちは鉾先を変えてきました。生いたちのこと、仕事のこ
と、何となく適当に答えていたと思います。そのうち、いつのまにかまゆみのことにもどって
いました。（原文から一部削除）
  ドキリとしましたが、大事なものに触れられたくない一心でウソをつきました。ふつうの意
味で可愛がっていただけだと答えました。
  その日のことも何とか隠しておこうとしましたら、
「ウソつけ、ホンマのこといわなんだら承知せんで。ポリ・グラフいうて知っとるか。ウソの
ばれる機械があるんやぞ」そして、しまいには、「後見てみい、まゆみちゃんの幽霊が立って
るやないか」とおどかすのです。
  私は思わずふりむきました。恐しかったというより、幽霊は信じませんでしたが、なつかし
さのあまりそんな反応を示したのでしょう。勢を得た刑事は、
「まゆみちゃんに会わせたろか」といいながら、引出しから現場写真を出してきました。顔を
そむけようとしても、一人の刑事が後から頭を押さえ、もう一人が写真を顔に近づけていうの
です。
「眼エあけとれよ。さあ、誰がこないにしたんや」
「やめ、やめて下さい」
  私はもがきました。まゆみのそのような姿は見るに耐えませんでした。
「ほなら、吐いてまえ」
「それでも私が殺したんとちががう････」
「誰が殺したんや」
「知りません」
  その時はまだ自分が進んで犯人になろうとまで考えていませんでした。
「そんなら聞くけどな、何ンで棺桶に取りついてわめいたんや。お前はまゆみの親か。兄弟か。
他人やったらナンでわめかんならんのや」
  これには説明のしようがありません。
  その時、初老の刑事が入って来て、静かな声で云いました。
「まあええやないか、わしにまかせてみ」
  老刑事を残して皆が出て行ってしまうと、彼は、
「お前いくつや、わしの息子とかわらへんな。ム････だいぶ、きつうやられたんか、お前も哀
れな男やなア、ようわかるで････」と、しみじみと語りかけてきました。張りつめていた気持
がゆるんで、私はポロポロ涙をこぼしました。不思議に、この人にならわかってもらえそうだ、
という気持がしたのです。
  後で拘置所の同房者が云うのに、このやり方をピストンといって、心理的なゆさぶりをかけ
てガタが来るのを待つ作戦なのだそうです。
  さて、老刑事はそれきり何も云いません。引出しからコヨリの材料を取り出すと、横を向い
てより始めたのです。
  その指が思ったより器用にコヨリを作り出して行くのを見ていて、たまらなくなってきまし
た。
  指、'刑事の指
  そして、私の指、
  あの日、愛撫した指、
  ああ、まゆみは私から離れて、なぜ死んだのだろう。誰があんな目に遭わせたのか。どうせ
こうして自分が疑われるのなら、
  いやたとえ疑われなくても、見も知らぬ他人の手にかかるくらいなら、いっそ自分が犯人で
あればよかった。
  まゆみの網膜に、最後に焼きついたものが、私の苦痛と喜びのいりまじった顔であればよか
ったのに。
  指、私の指
  この指でまゆみの白い喉を締めていたら････
「どうした」老刑事はなおもコヨリをより続けながら、顔を向けないで、無意識のうちに両手
を眼の高さまで持ち上げていた私に云いました。
「手エいうたら極道なもんやな。心に思わんことをしてまいよる。それでからに、一生ついて
まわりよる。切って捨てるわけにもいかず、いつも見て暮らさんならん････
  なあ平岡よ、まゆみが可愛いてどうしようもなかったんやろ。
  それで････その手エで、殺さんならんかったんやろ」
  そうだ、もし私が殺っていたのならその通りだ。いや、そうなっていて本当だと思いました。
「なあ、悪いようにせえへんで人間お互いに、悲しいもんな」
  あくまでも静かさを保ち、ぽつり、ぽつりと語る老刑事の言葉に、私の感惰は激し、それを
抑えておくのがやっとでした。まゆみの顔や両親の顔がうかんでは消えました。私が死刑にな
ったら、両親は生きていられるだろうか････
「死刑に････なるでしょうか」それを云うのに息がつまりそうでした。
  老刑事は、この時はじめてコヨリをおいて向きなおりました。
「そうか、やっぱり君が殺ったんやな。死刑になんかならへん。４年か５年や。それも執行猶
予つきやろ。安心して全部話してんか。まゆみちゃん、殺したんやな」
「殺しました」そのひと言はすらすらと出ました。汚名を着よう、汚名を着てまゆみとつなが
って生きようと決心しました。もはや激情を抑えきれなくなって、
「まゆみちゃん････」と、泣き崩れてしまいました。
  その瞬間から署内はめだって騒々しくなりました。
「吐いたんなら、会わせてや」
  ドアの外に記者たちがおしよせて来ます。老刑事がサッと出て行ったのと入れ替わりに、バ
ラバラッとはじめの若手たちが馳けこんで来て私の両手にガチヤンと鉄のワツパをはめました、
老刑事にはそれ以後会っていません。後で知ったのですが、県警本部から応援に来ていたベテ
ランだったのです。私は騙されたのかも知れませんが、それでよかったのだと思いました。
  それからは、めっきり優しくなったＡ町署の刑事たちと、「殺しました」のひと言につじつ
まを合わせるための筋書きを作る仕事でした。想像をたくましくして、アアか、コウかとたず
ねてくるのに、うなずいたり否定したり、時にはこちらからもつけ加えて、私はまゆみとの一
年の中から材料をかきあつめて、二人の演じる紀念の脚本をつくりあげたのです。
「アノ日、定時デミンナ帰ツテシマイ、私ダケガ翌日ノ作業ノ段取リヲスルタメ残業シテオリ
マシタ」
  それは事実でした。
「ソノ時、工場ノ外デ他ノ予供タチトアソンデイルまゆみチャンノ声ガ聞コエテイマシタ。ヤ
ガテ他ノ子供タチガ帰ツテシマツテ、ツマラナクナツタノカ、まゆみチャンヒトリ作業場ニハ
イツテキテ、『オ兄チヤン、カクレンボシヨウ』ト云イマシタ」
  なつかしい思い出と、もう一度まゆみとむつみたいという願いのいりまじった作文にな
りました。（原文から一部削除）
  その時、被害者は何か云っただろうと問われて、思い出したのは最初の日のことでした。
「まゆみチャンハ『オ母チャンニ云ウテヤル』ト叫ビマシタ」
「それで締め殺す気になったんやな」
  動機を見つけたと思ったのか、刑事はにんまりしました。もし認めたら、「故意の殺人」に
されたでしょう。それは恐れませんが、私はどこまでも、この言葉の調子を、事件の日の裏庭
での同じ言葉のそれにしたくありませんでした。それはむしろ楽しいひびきで、殺意にむすび
つくものではないと主張しました。収り調べもここまで進むと、なれ合いになって、私も余裕
ができていたのです。
「困るやないか････それでは、声が大きいて、聞こえたらあかん思うて口をフタしたんとちが
うか」
「そうです。そうです」
  こうして、何とかつじつまを合わせた共同作品が完成し、署名を終えると、
「よっしゃ、ご苦労やった。検察で、もツペん聞かれるが、違うたこと云うたらあかんで、た
いした刑にならへんさかい、心証悪うしたら損や」と、念をおされました。云われるまでもな
い、こうなったらあくまでも汚名を着続けるために、ボロを出さないことだと思いました。
  こうして私は、検事さんにも、弁護して下さるＴ先生にもウソをつき通したのです。
  Ｔ先生、あなたは私の刑を軽くするため、精神鑑定を主張なさいました。ここから私の計画
が崩れてきました。
  看守にともなわれてＨ大病院に通いはじめて数カ月がたちました。事件からは一年近くなろ
うという、やはりじめじめした暑苦しい日でしたが、山崎博士がこう云われたのです。
「少し疲れているようですから、涼しい部屋でぐっすり休みましょう。眠りながらお話を聞か
せて下さい」
  何のことかわかりませんでしたが、博士自身に導かれて入ったのは窓の一つもない密室で、
冷房がよく効いておりました。清潔な白布におおわれたベッドは特別やわらかで、横
になると休が沈みこみます。看守も看護婦もここまでは入って来ません。一人ベッドの傍らに
立った博士は、ふだん以上の優しい声で、
「心配ないのですよ、楽になれるよう注射を一本してみましょう」と云い、私の左腕をと
りました。
「ひとつ、ふたつ、と数えてごらん」
「ひとーつ、ふたーつ、みっつ、よー」
  ･･････････
  それは全くの空白、寝ていてさえ夢の記憶があるというのに、その何時間かの間に、私、は
何を語り、何を教えられたのでしょうか。意識を取りもどした時、私は一人でした。しばらく
は自分がどこにいるのかも思い出せませんでした。首から下がまだ眠っているように自由がき
きません。その時の気特は説明しにくいものでした。何か非常に大事なものを失ったような、
それでいて、こだわっていたものがスッと収れて落ちたような････
  それが何であるかを知ったのは鑑定書を読んだ時ですが、それでもまだしばらくは、失った
ものが惜しいような惜しくないような、中途半端な気持だったのです。たしかにまだ私はイソ
ミタールに酔わされていたようです。
  その名を何気なく口にした時、同房の学生さんがが聞きとがめて教えてくれたことによって、
私はそれの正体を知りました。もう判決の下りる直前でした。その学生さんは、いわゆるゲバ
棒医学生だったのです。
「『紅岩』という中国の革命文学の中に書かれている、アメリカの特務機関員が愛国者の口を
割らせるために用いた『誠実自白剤』というのがそのバルビツール酸で、最初から諜報関係者
のために開発されたものである。この自白剤を注射された人は完全に意志を失い、問われるま
ま『本当のこと』をしゃべってしまう。また、何の抵抗もなくいわれたことを信じこみ、意識
がもどってからでも、その効力は残りながら、何をされたのか自分では覚えていないという恐
るべき薬品だ」と。
  そして学生さんは、
「悪魔の水だ」と、憎そうにつけ加えました。それでも「紅岩」の愛国者は、それがうわさに
聞いた自白剤であることを見抜いて、意志を失うまい、眠ってしまうまいと闘い抜いたのだそ
うです。私には、そんなことがてきたはずもありません。気持よく眠ってしまって、何もかも
しゃべったのでしょう。山崎博士は、私が冤罪に甘んじている心理を知ってしまわれたのでし
ょう。いつもそればかり張りつめて考えていたのですから、話すこともそればかりだったと思
われます、鑑定書の表現はたくみで、それを抽象的に言っていたのです。
  山崎博士はまた、そのしこりを取りのぞく仕事－治療もなさったのではないでしようか。何
かもの足らない気分ながら、しばらくの間、私はまゆみのことをそれ程思わないでいましたか
ら。
  また、なぜ無実を表明しなかったのかと問われた時、汚名を着て生きるなどということが馬
鹿げたことのように自分でも思い、話す気がしなかったから不思議です。そこでキリストを引
き合いに出したりしたのですがおゆるし下さい。この手紙を牧師様にもあてたのはそのおわび
をかねてのことです。
  Ｔ先生は、真犯人を告発することがおできになりませんでした。申し訳けない云い方ですが、
私はその方がよかったと思います。まゆみを殺した人間がはっきりすれば、私はもっとみじめ
になるでしょう。そうでなくても精神鑑定は私からまゆみを奪いました。ぼんやりしていた私
も、判決のおりる頃には、失ったものの私にとっての重大さに気づいていました。だがもうお
そい、判決が下され、私とまゆみをつないでいた少女殺害犯人の汚名はこの時をかぎりに剥奪
されました。
  親父に出迎えられて家に帰ると、むなしさが一度におそって来ました。無心によろこぶ母に
はすまないのですが、心の中はからっぽです。私の本だなには昔通りの書物がならんでいまし
た。その中にめだって色あせた一冊はあの「児童心理」誌でした。－初潮と心理－まゆみは永
久に去ったのです。
  もう疲れました。文脈も乱れがちで、同じことをくどくど繰り返したようです。
  なぜ死ぬのかなど、くりかえして書かなくてもよろしいでしょう。とにかく、こうすること
で、私は私の生をつらぬきます。さようなら。

  この長い手記を読み終った丁度その時、電話がかかって来て、厚が意識を回復したとのこと
であった。
  またしても厚の意志にそむいて、世間は、両親や医師や弁護士や牧師も含めて、この男を引
きずり下したのだ。平岡厚は、どうでも死を味わって生きて行かねばならぬもののようであった。

(了)
第３５回オール読み物新人賞候補作品 １９６９年（３８歳） 『甘 い 冤 罪』 髙﨑 裕士

第３５回オール読み物新人賞候補作品１９６９年（３８歳）
『甘い冤罪』

髙﨑裕士
