『花山院』(１９５３年２３歳）

髙﨑裕士







  秋。山々は紅葉して、はるかな山なみさえも澄んだ空気を通して眼にしみるばかり美しい。
白い雲が飛ぶ。雲の影が千丈寺山の山腹を這って行く。山峡の湖にも青い空、白い雲、さかし
まに姿を映す山のにしき、その上汀ちかくの水面をおゝう菱も黄葉して、何もかも、すべてが
秋の色にそみ、秋の香にみちていた。
  ここは、摂津の国、と云ってもほとんど丹波の国との国ざかい、
  志長鳥  居名野乎来者  有間山
  夕霧立  宿者無而
と詠われた有間の山もこゝからははるかに南のかたである。
  まこと、花山法皇の一行は今朝がた摂丹の山越えをして来たばかり、ここは目的の羽束の里
に程近い小野の山里である。
  冷泉天皇の皇長子として生まれ、若く皇位についてからは当代一の風流者にこそあれともて
はやされたのも既に夢、拾遺和歌集撰集の事業も、后藤原抵子(※) との美しかった生活も、今
はすべて昔のむなしきこととなり果てた、口さがなき京わらんべどもは彼を道兼にあやつられ
たるものよと云いはやすが、たとえ道兼に何らの野心がなかったとしても、彼はやはり今日こ
の小野の山里を歩いていよう。そのような人問の思わくにもかゝわらず、雲は流れ山々はにし
きを着ているであろう。この北摂の山里に来るべくして秋が来たように、彼もこゝへやって来
るのは当然の帰結であったのだ。牛車も手輿も通わぬ山路を法皇はそう考えては歩み、岩をふ
んでは思うのだった。我身にも代えて愛した抵子を失ってから人生は一変してむなしきものと
なりはてた。なお彼を慕う女御、更衣はあれど、彼の心にできた穴をうめることは出来なかっ
た。寛和の２年、１９歳の花山天皇は山科の元慶寺に潜幸するや、たちまちに剃髪出家してし
まったのである。（※ 抵の字、正しくはﾘｯｼﾝﾍﾞﾝである。）
  それからいくたびの春秋がめぐって来たのか、法皇はすでに四十路に近づいて居た。そして
捨てたはずの世がなお身につきまとい、捨て切れぬ執着となっているのを知った。自分ではみ
にくき僧形とのみ思うに、なお人間花山を慕う女性が多かった。たち切れぬ芸術への夢も残っ
ていた。
  山科は京に近過ぎる。彼はどこか山の奥深くへ入ろうと考えた。女性はもとより風流を語ろ
うとする男子たちも近づけぬ山里へと思い立った。
  夏の終わり頃の或る朝、法皇はわずかに供を連れ、自身も徒歩(かち)で山科を立った。行方
は西のかたであった。
  法皇潜幸とのことは彼の意に反して彼を慕う人々に知られてしまっていた。京を横切ること
をはばかって山科から醍醐の辺をかすめ、深草、中島、大原を経て山陰道に達したにもかゝわ
らず、保津川に出る頃までにはそれらの人々に追いつかれてしまっていた。はとんどが女性で
しかも旅装束をして来ていた。法皇は困ったけれどもむげに追帰せぬのが彼の弱さであった。
そうして女をまじえた法皇の一行は天引峠を越え、やがて、途を南して摂津の国に入ったので
ある。
  有間の山がはるかに見わたされ、すでに秋の気は澄みきっていた。湖には志長鳥が無心にた
わむれていた。水が波だって菱の葉がゆれた。黒い鳥が飛立ってしまうと水の面はもとの鏡に
かえってにしきを着た千丈寺山をうつした。菱の葉はもうゆれていなかった。すべてが静かで
無心であった。雲が流れるにしたがって山から湖へと影をすべらしたけれどもやはりすべてが
無心であった。それでいゝのだ、と法皇は思った。やさしいきれいな眼で一行の女性たちを見
まわした。もうこの女たちも彼の心をかきまわすものではなく見えた。ついて来るものはつい
て来ればよい。共々に世を捨てる道づれなのだ。何者も私の心を曇らせはしないだろう。女た
ちは彼の眼の色に清らかな老人の安らぎに似たものを見た。法皇はまた岩をふみ杉の根をまた
いで歩み始めた。この坂を越ゆればもう羽束の里である。そこには空海が開いた山寺があるは
ずだった。女たちは琴をとり出して最後の旅路を唄った。
  ふたゝびはあはじとおもふはつかやま
  ふたゝびは･･････
  たんばじをわがこえくればはるかにも
  みやこのかたの･･････
  おもふまじよもおもふまじみやこは･･････
とぎれとぎれの唄声は琴の音と共に真木の木立に吸われていった。法皇も女たちもさめざめと
涙をこぼしたけれども心は明るかった。
  千丈寺山も羽束山も変わるはずなく今も北摂の高原にそびえている。法皇が足をとゞめたあ
たりも、今なお兵庫県有馬郡小野村(執筆当時である。現在は三田市尼寺)と呼ばれている。そ
して法皇がこもった寺も山も残っていて土地の人から「花山院(かさのゐん)さん」と呼ばれて
居り、山上には小さな、それでも菊の御紋のついた御陵がある。誰一人訪う人もないのに楓ば
かりが紅葉してはらはらと、はらはらと散っている。更にゆかしく思われるのはこの「かさの
ゐん」のふもとに小部落があって「にんじ」と呼ばれていることである。まぎれもなくあの女
たちが法皇をお護りするかのように尼となって住みついた「尼寺(にんじ)」である。そして白
い雲の流れる真木の木立のある坂は今も「琴ひき坂」と呼ばれているのである。(１２月２３日)

  (注) 花山院  正しくは「真言宗東光山花山院」西国三十三霊場の番外、現在は山頂まで車で行けるよう
       になり、参詣者で賑わっている。
『花 山 院』(１９５３年２３歳） 髙﨑 裕士

『花山院』(１９５３年２３歳）

髙﨑裕士
